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スプリング・フィーバー

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理解では足りない。共感では、とどかない。


倒錯する性や無軌道な日常をたどったところで、この愛にせまることはできないだろう。
こたえのない関係を問い、苦しみまで引き受けることでようやく、不実な春の漂泊に、
全き愛のすがたを見出すことがかなうのだ。


ある不倫を背景に、夫(ウー・ウェイ)の愛人(チン・ハオ)が“青年”であることを
知った妻(ジャン・ジャーチー)はとまどう。だが、雇った探偵(チェン・スーチョン)は
彼女の思惑をはなれて、青年のなかに恋人(タン・ジュオ)とはことなる魅力を認めていた。


交錯する想いを南京の街に取り出してみせたのは『天安門、恋人たち』のロウ・イエ監督だ。
前作の政治的反響により、思想という枠組から語られる危うさを伴うものの、「天安門」が
ひとつの時代をとらえる道具立てにすぎないのと同様に、本作で描かれた同性愛も数ある愛の
かたちから択ばれた、ひとつの選択肢にすぎない。


人はなぜ愛するのか、その答えは永遠に閉ざされている。だが、それを問うことは可能だ。
たとえば、夫との関係を持ちこたえたい妻の愛は、強制されたわけでもないのに社会的な
“常識”に自らをあてはめ、それに反する夫の愛を抑圧することで成り立っている。
だが、ひとつの“常識”に同致してことなる常識を排除することがひとしく容れられるならば、
その現実こそ“狂気”と呼べるものではないのだろうか。


ロウ・イエが描く愛の模様は、豊かさにともなう痛みを強いる。


交互に愛し合う男性の両義性をまえに、ふたりの女は常に無力だ。うしなった愛の重さを、
怒りという烈しさに逃す妻のすがたとは対照的に、工場ではたらく恋人は探偵と青年の
関係を知りながら、外向きの怒りではなく、内なる喪失の深さを測ることで充足する。
その愛はかぎりなく静かであり、それゆえにはかなく、傷い。


ひとがたゆたうのは、生の薄暗がりが途方もなく豊かだからだ。物語はありうべき孤独を
手放すことで、愛そのものを象っていた。



スプリング・フィーバー』 (2009年 中国=フランス 115min.)

監督 婁燁(ロウ・イエ)  脚本 梅峰(メイ・フォン)  
出演 秦昊(チン・ハオ) 陳思成(チェン・スーチョン) 譚卓(タン・ジュオ)ほか



                                (2010年 11月)