わたしを離さないで

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いつか、苦しみのない世界が訪れるとして。われらのささやかな倫理はこの
果てしない断絶を引き受け、みずからを赦し、それでもなお、とこしえの生を
ねがうことができるのだろうか。


厳格な規則の下に生きる寄宿舎のこどもたち。それぞれの将来を語りはじめる頃、
明かされた冷たい秘密。運命を受け入れながらもささやかな日々を送る若者たちが
信じた他愛もない噂のなかには、「愛を証明できれば、運命を猶予できる」という
“希望”があった。  


カズオ・イシグロの抑制的な語り口をみごとな映像に宿したのは、「ストーカー」の
マーク・ロマネク監督だ。映像化にあたっては、イシグロの盟友でもある小説家の
アレックス・ガーランドが脚本を担当することで原作とはことなる結末へと導いている。  


キャシー・H(キャリー・マリガン)とトミー(アンドリュー・ガーフィールド)、
ルース(キーラ・ナイトレイ)は幼なじみの絆を保ちながらも、ささやかな綻びを
内包している。この綻びこそ魂の証明であるのだが、この“証明”は物語終盤の
核をなしてゆく。  


特筆すべきは寄宿舎の神聖なる隔絶と、そこを離れた若者たちの暮らしだろう。
ことに、教師エミリー(シャーロット・ランプリング)が見せる冷たい眼差しには
「秘密」を巡る倫理的な葛藤を孕ませ、郊外のダイナーで注文に戸惑う光景には、
外界から閉ざされて生きる者たちのおかしみと悲しみとを両立させている。  


「人間とはなにか?」イシグロは来日後のインタビューで問うた。複製された
身体に精神は宿るのか。合目的な理由で存在する生命に生きてゆく意味はあるか。
さまざまな問いへの肉薄を実現したのはキャシー自身も“運命”の持ち主として
描いた映画版の独善である。原作をのりこえ、さらに踏み込む独白に刮目したい。  


生命はあらゆる可能な歴史を持つ。だが、ここに描かれた魂に約束の場所はなく、
択びとる未来さえ許されてはいない。かぎられたいのちの灯火を燃やすとき、
最期に、その瞳はなにを映したのか。



『わたしを離さないで』 (2010 イギリス)


監督 マーク・ロマネク


出演 キャリー・マリガン キーラ・ナイトレイ アンドリュー・ガーフィールド



                            (2011年 5月)