森崎書店の日々

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あらゆる映画が日常における事件であるならばまだしも、日常を
映画の方法で事件化することは、ひとえに怠惰のなせるわざである。
なれ親しんだ街を描く痛々しいまでの高揚をとらえる努力と同様に、
対象へ近づく適度な距離をはからねば、批評の地平を見失うだけだ。


恋と仕事をいちどに失った貴子(菊池亜希子)は、叔父のサトル
内藤剛志)が営む古書店の2階で暮らすことになる。みずからが
抱え込む内向きの韜晦に戸惑いながらも、人々や古書との出会いに
洗われる女性のすがたを、神保町が呼吸する気配のなかに描いた。


森崎書店の日々』は八木沢里志による小説を下敷きに、本作が
長編初監督となる日向朝子を迎えた。第3回ちよだ文学賞受賞作の
名にもあるとおり、なかば街をあげた事業の一環と呼べるのだが、
神保町の“いま”を宿した記録としては一定の評価に値するだろう。
だが、映画として世に問うだけの積極的な意義までは見出せない。


ほんらいの核である、読むことと生きることのかかわり合いや、
関係のなかに洗われ、沈潜する心のはたらきを描き切れないため、
たんなる舞台設定のもの珍しさだけに留まっている。役者の布置は
悪くないものの、貴子との関係がいまひとつ立ち表れてはこない。
その結果、上滑りした台詞だけが取って付けたような違和感を与えている。


物語に充足することが映画の目的ではない以上、その仕掛けには細心の
注意をはらうものだ。だが、街を捉えた映像が伝えるように、図と地の
輪郭を明らかにせず、いたずらに抜き出したショットでは神保町の
秩序ある雑然にたいして、猥雑の印象を上書きするだけである。


寄稿した印南敦史の語る「さりげなさ」や「ミニマル」に詩情を
見出すならば、日向の問う詩情とはその時々に流行して消費される
だけの、濫造されたイメージにすぎない。閉ざされた理念の内側で
組み立てられた企てが、現実の持つ“構造”へと届くはずもないだろう。
神保町への“郷愁”が作品評の下地となる時点で、それは自ずと
作品の限界を示しているのだ。


本読みの異常な愛情が、この作品の持つ危うさを覆い隠すならば、
批評はみずからを批評することでその怠慢を打ち砕かねばならない。



                      (2010年 11月)