アンダーカレント

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「他人に興味がない」と口にするのはたやすい。


思春期を迎えた少年少女であれば一度はそんな言葉をつぶやくのだろうし、あるいは
「大人は判ってくれない」とうそぶくこともあるのだろう。裏を返せばそれはじぶんを
理解してほしいという願いであり、耐え難い苦痛から立ちのぼる祈りにも似た思いである。
それでもなんとか日々をやり過ごして、やがて大人になった子供たちは、いつの日か愛する
子どもたちにこう言われるのである。 「大人は判ってくれない」と。


ぼくたちは途方もない隔たりによってじぶん自身を知る存在である。そしてこの世界に
存在するいかなる愛によっても、「区別における同一性」を打ち破ることはできない。
もとよりわかりあえないからこそ、ひとは愛を信じるのである。誰かを知ろうとするから
こそひとを想うのである。目の前の相手を慈しみ、思いやって、ふたたび訪れることのない
瞬間ひとつひとつを手に取り確かめるほかにない。愛は惜しみなく去ってゆく。
愛は至る所にあって、どこにもいないから尊いのだ。


豊田徹也は独自のパースを持っている。いっとき「映画のような」という形容に甘んじた
ように、彼の瞳は寡作を待ちわびる読者たちによってなにか特別な意味を期待されているらしい。
しいて言えば方法としての沈黙を描き分ける作家であり、登場する人物はひとりでいることの
所在なさを静けさの内に秘めている。一方で、他者との関係のなかに立ち現れる“人間”には
より体積を与えており、その静と動の比はマッス(質量)として読者の目の当たりとする所になる。


それだけでは豊田はごくありふれた作家のひとりに過ぎない。事実、物語にはなんら特別な舞台設定も
なければ意味づけもない。布置された人物の一人ひとりがあらゆる可能な歴史を有していながら、
決してわれわれへと肉薄しないことからもわかるように、彼の語り部としての手わざには特筆すべき
衒いや新しさも見えない。だが、あらゆる非日常が基底となる日常の領域によって支配されるように、
豊田の作家性はこの微温的な「地」に立ち現れており、その「図」と組み合わせることではじめて
「閉じつつ開かれた系」という内的音楽を映像へと変換させるのだ。


誰かを愛することは、愛する対象との耐え難い隔たりを受け容れることにほかならない。
ぼくたちは誰かのことを判りたいから惹かれ合い、判らないから斥け合う。
かくして愛とはその引力と斥力とが、幽かな信頼とあえかな想いによって危うい均衡を保つさまを言う。
愛はけっして立ち止まらない。


あたりまえに続くと思った日々と、なんとなく信じていた関係のゆらぎ。
豊田はこの作品に「アンダーカレント(under current)」という名をあたえた。


※ under current   1. 下層の水流、底流   2. (表面の思想や感情と矛盾した)暗流



                                 (2012年 1月)

コクリコ坂から

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海の見える丘で下宿屋を切り盛りする高校生の松崎海(声:長澤まさみ)は、家事と学業に
追われる日々のなかで風間俊(声:岡田准一)と出会う。文化部の部室棟“カルチェラタン”を
巡る騒動を背景に、ほのかな想いは思いがけない運命へとみちびかれてゆく。  


コクリコ坂から』は同名原作を下敷きに、時代設定を60年代に置き換えることで物語に
いくつかの核をあたえた。高度成長期を迎えた社会を背景に、若者たちのあえかな想いを
“恋愛”と“政治”の季節へと取り出してみせれば、朝鮮戦争の名残が“運命”を象る。
だが、取ってつけたような違和感だけは最後まで拭いきれなかった。  


微温的な日常を捉えるならば、精緻に描き込まれた細部が必要だ。『となりのトトロ』で
ざわめく木々やこぼれおちる葉、ささやかな流れや水面の揺らぎまで丁寧にたしかめた
作画もここには見られず、密度のまばらなタッチがレイアウトの粗さで余計に際立ってしまう。


造形こそ悪くはないものの、人物の関係性すら立ち現れておらず、物語に喚起されることも
なければ会話によって補われることもない。主人公のあだ名が“海”を意味する仏語であることも
伝えきれない手わざを作家性とうそぶくのであれば、宮崎吾朗はたしかに型破りと言えよう。
だが、型を持たない模倣は「焼き直し」でしかない。  


脚本を担当した宮崎駿の方向性が見えてこないことも、ジブリという巨大な看板が牽引してきた
アニメの地平にて、その名の浸透と解体が同時進行している現実のむずかしさと無関係ではないだろう。
しかし、後継を巡る試行錯誤が続くかぎり、“物語”を提示しようともがく一方で、すすむ空洞化を
免れることもできないのではないか。  


かつて渡辺保は『青砥稿花紅彩画』を演じた若者の未熟を評して「型が足りない。型を繰り返す
ためには情熱が必要であり、情熱は理想に支えられている。なぜ青年は理想に燃えないのか」と問うた。
いまのジブリに足りないものは“型”に裏打ちされた精度である。  


過去の遺産に相対化されるなか、ジブリはいかに理想を抱くのか。
迷走する老舗の理想を見とどけるためにも、あと少しこの笑劇に付き合わねばなるまい。


我らにもまだ、絶望の深さが足りないのだ。




コクリコ坂から』 (2011年 日本)


監督:宮崎吾朗 脚本:宮崎駿 丹羽圭子


声の出演:長澤まさみ 岡田准一 香川照之



                                         (2011年 7月)

ソーシャルネットワーク

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「セブン」デヴィッド・フィンチャーがはじめて実在の人物を描いた本作は、
facebook CEOのマーク・ザッカーバーグを中心に、世界最大のSNSをとりまく
若者たちの成功と苦悩、確執を捉えた。  

ハーバード大学に学ぶマーク(ジェシー・アイゼンバーグ)は、親友のエドゥアルド
アンドリュー・ガーフィールド)ら仲間とともに、あるSNSサイトを立ち上げる。
だが、マークのアイデアはとある兄弟の着想にヒントを得ていた。facebook東海岸
席巻、西海岸をも射程に捉えたとき、Napster創始者ショーン・パーカー(ジャスティン
・ティンバーレイク)と出会ったことで、それぞれの関係に大きな変化が訪れてゆく。


物語の極点はおそらくショーンとの会話に置かれている。初めて顔を合わせた中華
ダイニングとクラブシーンの会話では、いずれもショーンが一方的に語るだけだが、
ザッカーバーグの内なる劣情をかきたて、たったひとつの友情さえ棄てさせる催奇性を
秘めている。また、テムズ川の漕艇でウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)を捉えた
カメラワークも絶妙だ。逆チルト撮影による俯瞰でレースを追い、超低速再生で表情を狙う。
交互にこれを繰り返すことで、尊大に生きてきた兄弟の自尊心を取るに足らない現実の
一部分へと還元させ、facebookへの訴訟を決意する“事情”を補ってみせた。  


手わざもある。緻密な計算に支えられた会話に、テンポのよさ、ひとつひとつが高い水準を
充たしているのに物足りなさが残る。何となればそれは、フィンチャーが人間を巨視的に
捉える作家であることに基づいている。「セブン」で見せた原罪のアナロジーや
ファイトクラブ」で貫かれた肉体性の喪失も、すべては人間を、抽象的な存在として
“遠巻きに面白がる”姿勢に帰結するのだろう。  


いまひとつ感情移入できない人物と物語を分かち合うためには、観客みずからが微視的な視野を
ひらかねばならない。だが果たしてそこまでの価値があるのかと言えば、いささか疑問の残る作品だ。



ソーシャル・ネットワーク』 (2010 アメリカ)


監督 デヴィッド・フィンチャー 

出演 ジェシー・アイゼンバーグ アンドリュー・ガーフィールド ジャスティン・ティンバーレイク



                                  (2011年 1月)

わたしを離さないで

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いつか、苦しみのない世界が訪れるとして。われらのささやかな倫理はこの
果てしない断絶を引き受け、みずからを赦し、それでもなお、とこしえの生を
ねがうことができるのだろうか。


厳格な規則の下に生きる寄宿舎のこどもたち。それぞれの将来を語りはじめる頃、
明かされた冷たい秘密。運命を受け入れながらもささやかな日々を送る若者たちが
信じた他愛もない噂のなかには、「愛を証明できれば、運命を猶予できる」という
“希望”があった。  


カズオ・イシグロの抑制的な語り口をみごとな映像に宿したのは、「ストーカー」の
マーク・ロマネク監督だ。映像化にあたっては、イシグロの盟友でもある小説家の
アレックス・ガーランドが脚本を担当することで原作とはことなる結末へと導いている。  


キャシー・H(キャリー・マリガン)とトミー(アンドリュー・ガーフィールド)、
ルース(キーラ・ナイトレイ)は幼なじみの絆を保ちながらも、ささやかな綻びを
内包している。この綻びこそ魂の証明であるのだが、この“証明”は物語終盤の
核をなしてゆく。  


特筆すべきは寄宿舎の神聖なる隔絶と、そこを離れた若者たちの暮らしだろう。
ことに、教師エミリー(シャーロット・ランプリング)が見せる冷たい眼差しには
「秘密」を巡る倫理的な葛藤を孕ませ、郊外のダイナーで注文に戸惑う光景には、
外界から閉ざされて生きる者たちのおかしみと悲しみとを両立させている。  


「人間とはなにか?」イシグロは来日後のインタビューで問うた。複製された
身体に精神は宿るのか。合目的な理由で存在する生命に生きてゆく意味はあるか。
さまざまな問いへの肉薄を実現したのはキャシー自身も“運命”の持ち主として
描いた映画版の独善である。原作をのりこえ、さらに踏み込む独白に刮目したい。  


生命はあらゆる可能な歴史を持つ。だが、ここに描かれた魂に約束の場所はなく、
択びとる未来さえ許されてはいない。かぎられたいのちの灯火を燃やすとき、
最期に、その瞳はなにを映したのか。



『わたしを離さないで』 (2010 イギリス)


監督 マーク・ロマネク


出演 キャリー・マリガン キーラ・ナイトレイ アンドリュー・ガーフィールド



                            (2011年 5月)

BIUTIFUL

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グローバリゼーションがどうしたとか、不法移民を抱えた社会がどうあるべきか、
なんていう発想はきれいさっぱり忘れてほしい。バルセロナの喧騒にイニャリトゥ
監督が問いかけたものは、そんなちっぽけな切り口なんかではもちろんなくて、
誰しもが個別の生を送りながらもかかわり合い、斥け合う生のゆらぎにほかならない。  


不意に余命を告げられたウスバル(ハビエル・バルデム)は幼い二人の子供と、心を病む
前妻(マリセル・アルバレス)のあいだでとまどう。過去の清算に残された期限は二ヶ月、
だが、かぎりある日々を訪れるものは安息ではなく、あまりにも烈しい現実だった。  


「うまくやりたいとは思ってる、ただ、その方法が判らないんだ」


躁鬱の谷を行き来する前妻を抱きしめながら、ウスバルはささやく。建設現場や模造品工場で
はたらく不法移民と、その仲介料で糊口を凌ぐウスバル、公然と賄賂をもとめる警官たち。
すべてが罪ぶかくありながらも、誰ひとり悪と呼ぶにはふさわしくない存在ばかりだ。  


基督者の言葉を借りるならば、それは血と肉に生きるものの罪であり、霊を見ようとしない
敬虔さの欠如に基づく苦しみなのだろう。奇しくも死者の魂に耳をすませる能力を伴った
ウスバルにおいては、信仰の回復と現実の苛烈さとがその生に最期の苦悩を強いるのだが、
イニャリトゥの投じたものは絶望ではなく、希望への細い途である。  


それは幼な子の宿題を見つめる、父のまなざしに立ち現れている。Beautifulの綴りを
問われて【BIUTIFUL】と応えるウスバルには彼の生きた現実の険しさ、無学であるが
ゆえの過ちを孕ませながら、こどもには異なる未来を選び取らせたい父の願いを
見出せるだろう。だが、この光景に隠されたもうひとつの意味こそが作品の核である。  


綴り字の誤りはまさに、生が不完全であるからこそ美しいことを仄めかしている。
これは、或る未完成の美を捉えた物語だ。



『BIUTIFUL』 (2010年 スペイン=メキシコ 148min.)

監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

出演:ハビエル・パルデム マリセル・アルバレス ほか



                              (2011年 7月)
                      

森崎書店の日々

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あらゆる映画が日常における事件であるならばまだしも、日常を
映画の方法で事件化することは、ひとえに怠惰のなせるわざである。
なれ親しんだ街を描く痛々しいまでの高揚をとらえる努力と同様に、
対象へ近づく適度な距離をはからねば、批評の地平を見失うだけだ。


恋と仕事をいちどに失った貴子(菊池亜希子)は、叔父のサトル
内藤剛志)が営む古書店の2階で暮らすことになる。みずからが
抱え込む内向きの韜晦に戸惑いながらも、人々や古書との出会いに
洗われる女性のすがたを、神保町が呼吸する気配のなかに描いた。


森崎書店の日々』は八木沢里志による小説を下敷きに、本作が
長編初監督となる日向朝子を迎えた。第3回ちよだ文学賞受賞作の
名にもあるとおり、なかば街をあげた事業の一環と呼べるのだが、
神保町の“いま”を宿した記録としては一定の評価に値するだろう。
だが、映画として世に問うだけの積極的な意義までは見出せない。


ほんらいの核である、読むことと生きることのかかわり合いや、
関係のなかに洗われ、沈潜する心のはたらきを描き切れないため、
たんなる舞台設定のもの珍しさだけに留まっている。役者の布置は
悪くないものの、貴子との関係がいまひとつ立ち表れてはこない。
その結果、上滑りした台詞だけが取って付けたような違和感を与えている。


物語に充足することが映画の目的ではない以上、その仕掛けには細心の
注意をはらうものだ。だが、街を捉えた映像が伝えるように、図と地の
輪郭を明らかにせず、いたずらに抜き出したショットでは神保町の
秩序ある雑然にたいして、猥雑の印象を上書きするだけである。


寄稿した印南敦史の語る「さりげなさ」や「ミニマル」に詩情を
見出すならば、日向の問う詩情とはその時々に流行して消費される
だけの、濫造されたイメージにすぎない。閉ざされた理念の内側で
組み立てられた企てが、現実の持つ“構造”へと届くはずもないだろう。
神保町への“郷愁”が作品評の下地となる時点で、それは自ずと
作品の限界を示しているのだ。


本読みの異常な愛情が、この作品の持つ危うさを覆い隠すならば、
批評はみずからを批評することでその怠慢を打ち砕かねばならない。



                      (2010年 11月)

スプリング・フィーバー

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理解では足りない。共感では、とどかない。


倒錯する性や無軌道な日常をたどったところで、この愛にせまることはできないだろう。
こたえのない関係を問い、苦しみまで引き受けることでようやく、不実な春の漂泊に、
全き愛のすがたを見出すことがかなうのだ。


ある不倫を背景に、夫(ウー・ウェイ)の愛人(チン・ハオ)が“青年”であることを
知った妻(ジャン・ジャーチー)はとまどう。だが、雇った探偵(チェン・スーチョン)は
彼女の思惑をはなれて、青年のなかに恋人(タン・ジュオ)とはことなる魅力を認めていた。


交錯する想いを南京の街に取り出してみせたのは『天安門、恋人たち』のロウ・イエ監督だ。
前作の政治的反響により、思想という枠組から語られる危うさを伴うものの、「天安門」が
ひとつの時代をとらえる道具立てにすぎないのと同様に、本作で描かれた同性愛も数ある愛の
かたちから択ばれた、ひとつの選択肢にすぎない。


人はなぜ愛するのか、その答えは永遠に閉ざされている。だが、それを問うことは可能だ。
たとえば、夫との関係を持ちこたえたい妻の愛は、強制されたわけでもないのに社会的な
“常識”に自らをあてはめ、それに反する夫の愛を抑圧することで成り立っている。
だが、ひとつの“常識”に同致してことなる常識を排除することがひとしく容れられるならば、
その現実こそ“狂気”と呼べるものではないのだろうか。


ロウ・イエが描く愛の模様は、豊かさにともなう痛みを強いる。


交互に愛し合う男性の両義性をまえに、ふたりの女は常に無力だ。うしなった愛の重さを、
怒りという烈しさに逃す妻のすがたとは対照的に、工場ではたらく恋人は探偵と青年の
関係を知りながら、外向きの怒りではなく、内なる喪失の深さを測ることで充足する。
その愛はかぎりなく静かであり、それゆえにはかなく、傷い。


ひとがたゆたうのは、生の薄暗がりが途方もなく豊かだからだ。物語はありうべき孤独を
手放すことで、愛そのものを象っていた。



スプリング・フィーバー』 (2009年 中国=フランス 115min.)

監督 婁燁(ロウ・イエ)  脚本 梅峰(メイ・フォン)  
出演 秦昊(チン・ハオ) 陳思成(チェン・スーチョン) 譚卓(タン・ジュオ)ほか



                                (2010年 11月)

クレイジー・ハート

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その愛は遠くから、自身へと立ち返る哀しみの斥力を帯びていた。


旅に生きるもののすがたは儚くも日々の痛みを持ちこたえたまま、
真正面から切り結ぶことのできない現実との距離を測りかねている。
絶望の淵を覗き込む勇気さえ持てぬ者たちよ、この旅を見届けよ。


これは救抜の物語でもなければ、再生を祝福する賛歌でもない。
老境にさしかかる歌手バッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)は、
かつての栄光と無自覚な奇矯のあいだに危うい生を見出している。
便器を抱えて反吐をはき、老いゆく身体を床に横たえ眠る一方で、
ステージでは残り僅かな矜持を駆り立て、じぶん自身を励起する。
それは痛みに支えられたお芝居、人生の笑劇(ファルス)なのだ。


惹かれあう地方紙記者、シングルマザーのジーン(マギー・
ギレンホール)に抑制的な美を捉え、かつての弟子でもあった人気歌手、
トミー・スウィート(コリン・ファレル)の歌唱には息を呑みこむ。


さまざまな楽しみかたが観客の数だけ許される不思議な物語は、
精確なショットにより生の輪郭を掘り起こす試みに成功している。
認め合う子弟がひとつのマイクと12000人の観衆を前に立つとき、
スクリーンには訳詞はおろか、役柄としての二人も映らない。
fallin’& flyin’の調べにのせて、揺るぎない信頼だけを宿すのだ。


痛みを抱く者のあいだに、互いを知るための手続きは要らない。
満ち欠けする愛を導くものは狂おしい引力と斥力の両方であり、
その何れかを欠くとき、ふたりはふたりからふたつの独りになる。
どんなに求めても重なり合う涙のようにひとつにはなれないし、
どんなに愛しても、隔たりゆく心を継ぎ合わすことはできない。


だからこそブレイクは歌う。届けられない想いを楽曲に乗せる。
壊れそうな心を、震える傷みを、すべての希いをこの歌に託して、
決して受け容れられることのない懺悔を観衆のもとへと投じる。


Strain your ears, Listen.  耳をすませよ、そして魂の歌を聴け



                      (2010年 6月)

プレシャス

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Wo viel Licht ist , ist starker Schatten. 光挿す場所にいて、闇の冥さがわかるものか


いまに何かが起こる、だれかがアタシを変えてくれる。16歳のプレシャス(ガボレイ
・シディベ)は、困難と向き合うたびに空想の世界へと旅立ってしまう。読み書きが
苦手で、学校には友達と呼べる存在もいない。街を歩けば大きな体をからかわれ、
家に帰ると些細なことで暴力をふるう、冷たい母が待っている。


あまりにも苛烈な物語は、N.Y.での教師体験を描いた詩人・サファイアの小説
「PUSH」を原作に敷く。貧困、レイプに虐待と現代の宿痾を集めながらも一様の悲劇に
終わらない仕上がりは、自らも虐待を受け、同性愛者への差別を余儀なくされてきた、
リー・ダニエルズ監督の原体験に拠るところが大きい。


代替学校へと進み、読み書きを通じて自分自身へ立ち返る過程は、さながら「奇跡の人」に
おける教師サリバンと、ヘレン・ケラーとの関係を想起させた。国語教師、ブルー・レイン
ポーラ・パットン)や仲間たちとの出会いを経て、プレシャスは自閉した空想の世界を離れ、
たどたどしい文体で内面を伝える。


書くことは自らを相対化する試みに他ならない。それは回生への瞬間だ。 受容されることを
知った娘とは対照的に、母(モニーク)の孤独は深まり、生まれたばかりの孫を抱かせてと
せがんで床に放り投げる。愛した夫は実の娘に手をかけ、二人目を妊娠させた後で彼女を棄てた。
愛と表裏一体をなした怒りはしかし、身を切り裂くように烈しく、痛い。


繰り返された落胆と失望は絶望へと形を換え、頑な心に深く根を下ろしている。
そこに再起への兆しは見えない。果たして、愛は、生の暗がりに幽かな灯りを点すことが
できるのだろうか?この難しい問いを投げられたのち、観衆はカウンセラー
マライア・キャリーが見せる剥き出しの演技に刮目)との場面にその解を見出す。


「誰が私を愛してくれるんだい?」と呟く母に「彼氏なんて一度もいなかった、父親
結婚なんかできないのに!」と返す娘は、紛れもなく愛を宿している。
ただ、ひとは時々、その痛みと隔たりに勇気を欠いてしまう存在なのだろう。


障害を負った娘のモンゴと、生まれたばかりのアブドゥルの手を引きながら、
プレシャスは光のなかを歩んでゆく。その生は、強かに赫いていた。



                                 (2010年 5月)

空気人形

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ひとはなぜ生きるのか。この問いには、ある転倒が加えられている。


街の灯りに照らされて、長くのびた影法師がふたつ。もの静かな青年、
ジュンイチの影はそこにあるのに、ノゾミの影は透きとおってしまう。


生きることがじぶんを象る人間と、何かのために生みだされた人形の、
生命と非生命のあいだ、はからずもさしのばされたふたりの距離感は
おごそかにも残酷な解をほのめかし、その一方で観るものを突き放す。


業田良家による原作「空気人形」に着想を得た是枝は、カメラマンに
夏至」「花様年華」などで知られる名伯楽、リー・ピンビンを起用した。
ふいに心を宿し、この世界に生まれ出ずるラブ・ドールに扮したのは、
リンダリンダリンダ」で日本にも知られる韓国人女優ペ・ドゥナだ。
異邦人のまなざしと、無垢な人形の捉えた日常はあたかも異界のようで、
見なれたはずの街並みを掘り起こし、あたらしく取り出してみせた。


たがいの空虚が響きあう現代に、ありふれた宿痾とも呼ぶべき孤独を
いまいちど手に取り、確かめようとするのではなく、そっと見つめる。
是枝が得手とする奇蹟の不在はこの物語においても引き継がれており、
人形の主人でもある中年男性には願望のないまぜになった独白を、
かつて代用教員をしていた老人に、語り部として吉野弘の詩を託した。


「生命はそのなかに欠如を抱き、それを他者から充たしてもらうのだ」


その欠如と充足とは、うばい合いあたえ合う、生の秘蹟にほかならない。
孤独は、ときに甘美な嘘をつく。つながりという口吻は人々を魅了して、
卑小な連帯への囲い込みをやめようとしない。ひとはもとより平等でも
絶対でもなく、誰しもが個別の時とばあいを生きている。


だが、それが不実な慰みと知っていても、ひとは誰かを愛さずにいられない
無垢なる魂の物語は、その極点を官能のなかに迎えた。腕に傷を負ったとき、
流れ出たものは血ではなく、空気だ。からっぽな人形は愛するものの呼気に
充たされてはじめて肉を手に入れ、愛するものを充たそうとして肉を喪う。
そのやりとりは哀しくも、滑稽だ。


ありうべきおとぎ話を引き受けて、我々は現実へと立ち戻らねばならない。
空白を乗りこえるものは空白であり、美しいことばの孕むまぼろしではない。


人形のため息が風をわたるとき、われらもひとつ、呼吸をかぞえる。



                         (2009年 10月)

隣人に光が差すとき

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おそらく、安藤裕子のくぐった門はそう狭いものではなかった。


俳優としてデビューを飾るもののお世辞にも役柄には恵まれず、
戯れに披露した歌唱が注目を集めた後に歌手として脚光を浴びる。
誰しもに開かれた道が狭隘な出口しか持たない例に照らす限り、
その蹉跌は必ずしも大きいと言えない。だが、この不毛の季節が
彼女の内的音楽をあたため、開花させた事実に疑いの余地はない。


「隣人に光が差すとき」は2004年に発表された1stアルバム
『Middle Tempo Magic』の第11曲目に収録されている。


そして、この布置には確かな理由がある。最終曲「聖者の行進」は
文字通りミドルテンポの曲が続くなか、スネアドラムの躍動的な
一打一打を足音に見立てることで、それまでの音に鮮やかな決別を
告げている。言うなれば、この動的な瞬間に先立つ最後の静けさこそ
「隣人」に課せられた使命であり、曲が呼吸する気配と呼べるだろう。


アルバム発表の前年、堤幸彦『2LDK』のエンディングテーマとして
この曲が抜擢されたとき、安藤は既に26歳の秋を迎えている。


やわすぎた私は人混みのなか埋もれ 光の差すあなたを見てた
輝けるあなたの斜め後ろを辿り こぼれる光に手をのばす


友人たちが脚光を浴び、やがて人気の凋落とともに消え行く姿を
卑屈や憐れみに堕すことなく、ただ見届けるかのように歌い上げた。


自らの行く末を見つめること、その内圧を詩の温度へ逃したことで、
抑制された叫びとしての歌声も、ようやく音楽的な調和に導かれる。
長い韜晦の日々と、その後に訪れたつかの間の安息を慈しむように、
彼女は全体重をあずけながら、この上ない叙情を歌へと託してゆく。


そこに特別な唱法や技巧はない。ただ、生にのみ宿る情意がある。
安藤がようやくその名を知られるきっかけとなった曲の登場には、
さらに三年の歳月を待たねばならない。彼女にとって最大の到達は、
祖父母の愛を描いた「のうぜんかつら」によってもたらされた。



                      (2010年 11月)

イングロリアス・バスターズ

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牧歌的な日常のなかに、ぴんと張られた一枚の寝具。
 
風に吹かれて翻る向こう側の景色には、ハーケンクロイツをはためかせ近付く、ナチスの車輛たち。
ここは占領下のフランスだ。観衆は此岸から、自らの持つ歴史の文脈に物語を重ねる。
 
スクリーンに定着するイメージは、彼岸に映し出されたハイパーリアル(hyper reel)を
提示しているだけに過ぎない。冒頭から、この物語は映画の不可能性を証明しようと試みている。
巧みにも映画である自明さを持ちこたえながら、誰しもに解読可能な公共の暗号として一枚の
シーツを選び、スクリーンに見立てることで現実と非現実における”内破”を引き起こすのだ。
 
タランティーノ監督2年ぶりの新作は、イタリアのB級作品『地獄のバスターズ』のリメイクだ。
物語はナチス占領下のフランスを舞台に、独立愚連隊と化した連合軍の特殊部隊と女スパイ、
一方ではユダヤ人狩りを逃れ、復讐を誓う映画館主の女性とドイツ軍の兵卒を軸に描かれた。
 
国策映画の試写会を標的にナチス軍抹殺をはかるバスターズ。時を同じくして、自らの劇場に
火をかけてまで失われた家族への想いに報いようとする女主人。それぞれの作戦が始まる。
 
シネフィルと呼ばれる者たちは、しかし、この作品の猟奇性と悪ふざけに辟易することだろう。
敵兵を殺し、頭の皮を削ぎ落とす光景は戦闘の残虐性を弄び、食事のシーンでは口元と菓子を
交互に映しながら、極めて不愉快な音を立てたままドイツ兵とユダヤ人との心理戦を絡める。
だが、こうした悪ふざけの数々は極めて精緻な繰り返し構造のなかに用いられており、暴力は
観衆に宿る根源的な感覚と呼応し、互いを映すスクリーンの役割を期待した装置に過ぎない。
 
国策映画の主役を演じた兵卒は、首を傾げながら複製された現実を観る。バスターズを率いる男は
ドイツ兵に鍵十字を刻み、「これが俺の最高傑作だ」とさけぶ。ナチスを呪った女主人は、自らの
最期をフィルムに託し、焼け崩れるスクリーンのなかで、いと高らかに笑ってみせる。
 
映画と現実、彼岸と此岸。ダブル・ミーニングへと託された、絶え間ない往還と反転する交替。
これは、映画を誰よりも愛するが故に映画を告発せざるを得なかった男の、かなしい企みだ。
 
                                    
                                    (2009年11月)